結婚は無価値なのか?結婚するに足る理由があるなら、それはたった一つしかない


結婚って何だろう?

僕は独身だ。年齢的にもこういうことをよく考える。
独身の皆さんも一度は考えたことがあるのではないか?
昨今のネット上では様々な意見が飛び交っている。
例えばよく見る代表的なものだと

  • 子供が欲しいなら結婚すべきだよ!
  • 年老いてからの独りはキツい。誰かと一緒にいるべき

といった、結婚を肯定する意見もありつつも…

  • 結婚したら嫁が全く家事をしない
  • 一緒にいてもケンカが絶えず、結婚の意義がわからない

などと、ネガティブな意見も存在する。
むしろ他にも不倫や性生活によるものなど、割合的に見ると比較的ネガティブな意見の方が多いようだ。
そしてこれらは既婚者、独身者の両者から挙がっている意見ということを考慮すると、ネガティブな意見の割合と比例して、既婚者の中でも 結婚生活が上手くいっていない人の割合の方が多い ということが言えるのではないか。
メリット / デメリットで比較するのはナンセンスだというが、もはや議論が巻き起こっている時点で、そういった比較は避けては通れない。
だが、そもそも結婚に対する理由になっているのか?
こういった意見に対して僕なりの意見をまとめてみた。

結婚に対するさまざまな意見

子供が欲しいから結婚する?


よく子供を理由に持ち出す人が多いが、果たしてそれはどうのか?
独身者の目線から言うと、それは ただの結果論 にすぎない。
まだ子供がいないのに、 存在しない者に想いを馳せるのは、おおよそ不可能ではないか?

そもそも子供が可愛いかどうかもわからない。
無論、生まれた子供がどう育つかもわからないし、きちんと教育をするには、その裏側に自分の時間を犠牲にするなどの莫大なコストが伴う。
子供がいるから仕事が頑張れると言う人もいるが、それくらいのモチベーションの糧にはなってほしいものである。
これは純粋に子供の存在を否定しているのではなく、言いたいのは子供を軸に結婚を考えるのはナンセンスだということだ。
やや穿ちすぎな考えであることは承知しているが、これは理由にならないと言いたいだけである。

老後に独りは寂しいから結婚すべき?


わからなくもない。常に独りで過ごしていると時折煢然たる気持ちを抱くこともある。
まして年老いてからであれば、なおさらだろう。
だから結婚するのか?答えは否だ。
“寂しい” = “結婚する” とはならない。なぜなら老後にも二人で仲睦まじく同じ時間を共有するのにも
両者が共同生活の中で数十年もの間、互いに寄り添い、思いやるという努力抜きには成し得ないからだ。
この努力の成果があってこそ初めて成立するのであって、無論うまくいかなければ別居や離婚も有り得るのだから
リスクと天秤にかけて判断するべきだ。

結婚したものの、婚前に予期し得なかった共同生活のストレスが避けられないから結婚はやめるべき?


ストレスの理由は様々だが、こういった類いの悩みは生活習慣のズレや価値観の相違からおおよそ生まれる。
これはあくまで僕の考えだが、こういった失敗に陥るカップルの多くは結婚をゴールだと捉えていることが多い。
当たり前のことだがこれは大きな間違いで、 結婚はゴールではなくスタートだ。
これから数十年も生活を共にする上で、先の先までイメージできるくらいの関係値を、婚前段階で築いておかなければならない。

好きな人と一緒にいられるだけで幸せだから結婚すべき?


僕から言わせると、 好きな人と一緒にいたい ことを理由に結婚する人は大抵失敗する。
“恋は盲目”とはまさにこのこと。
そもそも現代の若い人たちは、付き合っては別れてを繰り返している。
相思相愛で、この関係はずっと続くと思いながら付き合っても、ささいなケンカで関係を維持しようという努力はせずに別れることが多いのではないか。
無論、僕も例に漏れずこの様な別れ方をしてしまった経験がある。
そんなカジュアルな付き合いをしている人間が、どうして結婚してずっと一緒にいられると思うのか?

こんなことを考えていくと、こじらせる

こう深く考えると、ただただ失敗したくない事を理由から前に進めなくなる。
結婚にポジティブな意見ですらも、ポジティブに捉えきれない理由を見つけてしまうのだ。
なぜなら 結婚の良さも悪さも、結婚してみなければわからない からだ。

そんな思いを巡らしている時、ふと既婚者の同僚と飲みにいくことがあった。
そこで彼に結婚について色々と話を聞くうちに、 僕なりに腹落ちする理由 を聞くことが出来たのだ。

僕が納得できた結婚するたった一つの理由

前提

結婚がイメージできる。
すなはち 互いに愛し合い、共存するイメージができる ほどの人と出会い、
結婚して子供を授かったと仮定する。

ちなみに余談だが、二人が共存するイメージを確認するために同棲という選択をするカップルをよく見かけるが、あれは違う気がする。
とどのつまり結婚しきるイメージができない故、失敗が許される(付き合う段階では別れることが出来る)状態を担保しているだけに過ぎない。
好きな人と一緒に居たいから同棲するという、至極単純な行いに過ぎない。

子供が生まれて

当然我が子には自分がこれまで生きてきて、やり残したことや後悔を子供にしてほしくない。正しく好きなことをして育って欲しい。
ゆえに子供の成長をひたすら側で見守るのだが、実はそこには 親として子供の人生を見守るという、もう一つの人生を親として楽しめる余地がある ということだ。

子供の頃、「ちゃんと勉強しないと将来困るのはあなただよ」と言われた

同様のことを言われた経験はないか?
だがこの言葉を受け取った頃の僕は幼く、言葉の意味があまりに抽象的で、なぜ勉強しなければいけないのかわからなかったものだ。
もちろん今なら痛いほどわかるし、もし子供の頃に戻れるならもっと勉強するだろう。

それは 与える という事だ。
親から子へ、師から生徒へ。上流から受け取り下流に渡す。
これは遥か以前から存在する人の営みそのものであり、現在の親が子を育てるという行為にも通じている。

僕は自分の子供にその事を伝え、正しく与えたい。
この世界を取引主体としてではなく、まず贈与を主体として認識して欲しい。
学習は “勉強しなければならない” という苦痛と “勉強をしたから知識が得られる” という取引なのではなく、前の世代からの贈り物だ。
先人たちの紡いだ知を、経験を、与えられているのだ。
贈る事と与えられる事を通じてこそ、人々は命を繋いでいけるのではないか。

最後に

そうはいってもまずは相手を見つけなければ…
ふと周囲に目を向けると、やれ若い方がいいだの、やれ年収だのと聞こえてくる。
世も末である。


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